2006年 08月 25日
フットボールの作法 -名将岡田監督への賛辞-
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近年で最も悪いと思われるチーム状況で望んだ大宮戦の無様な試合の翌日、岡田監督自らが辞意を表明することによってチームを奮い立たせると言う、言わば自決によって選手に最後のメッセージを背中で伝え去っていった。
人それぞれ応援や観戦のスタンスがあり、それぞれの考える形で応援でも、批判でも、ブーイングでも、意思表示をするべきだと思うので、今回のエントリーは普段公共性の強いブログにはあまり書かない様なかなり突っ込んだ至極個人的な意見を書きますので、僕個人の戯言として呼んで頂ければ幸いです。
まず、結論から言ってしまうと、大宮戦の敗戦後はスタジアムを包みこむ盛大なブーイングで選手を迎えるべきだったと僕は思う。
事実、僕自身は試合後、指笛と共に精一杯のブーイングでピッチにいる選手に今の最悪のチーム状況を非力ながら伝えたつもりでいたけど、三ツ沢にいたマリノスのファン、サポーターの多くはブーイングと言う手段でメッセージを伝えることはなかった。
第一、今回試合後にゴール裏で起こったいざこざ(ここで詳しい内容については触れません)も現状に対する温度差によって生まれた事で、マリサポの大多数が成熟した思考の元で同じベクトルを向いていれば決して起こらなかった事件だったと思う。
あの様な状況であの様な試合を見せられて尚選手を拍手で迎え、選手の姿を写真に収め、Fマリノスコールができる人はいったいどの様な考えの基であるのか?
「ブーイングすることが選手の後押しにはならない」
「一番悔しいのは選手」
「選手は精一杯がんばった」
「けなされたり、怒られて良い気分になる人はいない」
どれもこれも正論でしょう。
只、それで本当に僕たちの、物理的にゲームに加担出来ない第三者である僕たちの、悔しさや怒りといった感情は彼らに伝わっているのでしょうか?彼らに危機感を与えられたいるのでしょうか?
勝っても負けても盲目的に一貫して頑張った選手に拍手を送る。
試合内容に関わらず、試合後に挨拶にくる選手に対して労いの拍手とFマリノスコールを贈る光景は一見美しい、慈愛に満ちた光景に見えますが、その実、完全に「思考停止」状態だとも思います。
試合内容や状況によってブーイングをしたり、選手を鼓舞するチャントを歌ったり、はたまた賞賛の歌で迎えたり、盛大な拍手で迎える事が、誰かの先導の元では無く、マリサポの総意として湧き上がる事の方が、試合を観る眼も、チームが置かれたいる状況を把握する力も、必要であり、最もサポーターの成熟度が問われる瞬間だと思うのです。
つまり、その時々の状況によって選手やクラブに対するメッセージは違うべきであって、それをする為には状況を見極める「眼」が必要不可欠でサポーターとしての成熟度が高くなくてはできないという事です。
アイドルのコンサートの様に、試合内容は二の次で選手個人を間近で観たい、写真を撮りたいといった目的でスタジアムに足を運んでいるファンの方には、僕のこの意見は意味不明でしょうが、「サポーターは12番目の選手」と言う馬鹿げた迷信を信じている方には若干は共感して頂けるのではないでしょうか?
なぜ今回この様な内容を書こうと思ったかと言うと、冒頭で触れた岡田監督に対するメッセージを、そして引導を僕たちサポーター自らが監督に伝えたかったからです。
03年、04年と2連覇へと導き、都会的でクールなチームを戦える集団に変貌させた名将に対するせめてもの礼として、最後の引導は僕たちの盛大なブーイングによってもたらされるべきだったと思うのです。
ブーイングに乗せて「お疲れ様」と。
それがフットボールにおける礼儀作法だと僕は信じているのです。
最後に岡田監督自らが語ったサポーター論を。
「サポーターはチームとともに闘うなかで感動を得る。ファンはお金を払って感動を買う。」
「勝てるチームはフロントやサポーターやボランティアなど、そこに関わる全員が全力を尽くすチームだ。」
岡田監督。数々の感動を、そして勇気を本当にありがとう。
僕たちサポーターが今以上に成熟し、あなたが今後、更に監督としての経験を積み、人間としての深みを更に増してスケールアップした時に再び再開し、リーグを、そして果たせなかったアジアを、また共に戦える日を楽しみにしています。
僕の中ではあなたは永遠に偉大な名将です。
人それぞれ応援や観戦のスタンスがあり、それぞれの考える形で応援でも、批判でも、ブーイングでも、意思表示をするべきだと思うので、今回のエントリーは普段公共性の強いブログにはあまり書かない様なかなり突っ込んだ至極個人的な意見を書きますので、僕個人の戯言として呼んで頂ければ幸いです。
まず、結論から言ってしまうと、大宮戦の敗戦後はスタジアムを包みこむ盛大なブーイングで選手を迎えるべきだったと僕は思う。
事実、僕自身は試合後、指笛と共に精一杯のブーイングでピッチにいる選手に今の最悪のチーム状況を非力ながら伝えたつもりでいたけど、三ツ沢にいたマリノスのファン、サポーターの多くはブーイングと言う手段でメッセージを伝えることはなかった。
第一、今回試合後にゴール裏で起こったいざこざ(ここで詳しい内容については触れません)も現状に対する温度差によって生まれた事で、マリサポの大多数が成熟した思考の元で同じベクトルを向いていれば決して起こらなかった事件だったと思う。
あの様な状況であの様な試合を見せられて尚選手を拍手で迎え、選手の姿を写真に収め、Fマリノスコールができる人はいったいどの様な考えの基であるのか?
「ブーイングすることが選手の後押しにはならない」
「一番悔しいのは選手」
「選手は精一杯がんばった」
「けなされたり、怒られて良い気分になる人はいない」
どれもこれも正論でしょう。
只、それで本当に僕たちの、物理的にゲームに加担出来ない第三者である僕たちの、悔しさや怒りといった感情は彼らに伝わっているのでしょうか?彼らに危機感を与えられたいるのでしょうか?
勝っても負けても盲目的に一貫して頑張った選手に拍手を送る。
試合内容に関わらず、試合後に挨拶にくる選手に対して労いの拍手とFマリノスコールを贈る光景は一見美しい、慈愛に満ちた光景に見えますが、その実、完全に「思考停止」状態だとも思います。
試合内容や状況によってブーイングをしたり、選手を鼓舞するチャントを歌ったり、はたまた賞賛の歌で迎えたり、盛大な拍手で迎える事が、誰かの先導の元では無く、マリサポの総意として湧き上がる事の方が、試合を観る眼も、チームが置かれたいる状況を把握する力も、必要であり、最もサポーターの成熟度が問われる瞬間だと思うのです。
つまり、その時々の状況によって選手やクラブに対するメッセージは違うべきであって、それをする為には状況を見極める「眼」が必要不可欠でサポーターとしての成熟度が高くなくてはできないという事です。
アイドルのコンサートの様に、試合内容は二の次で選手個人を間近で観たい、写真を撮りたいといった目的でスタジアムに足を運んでいるファンの方には、僕のこの意見は意味不明でしょうが、「サポーターは12番目の選手」と言う馬鹿げた迷信を信じている方には若干は共感して頂けるのではないでしょうか?
なぜ今回この様な内容を書こうと思ったかと言うと、冒頭で触れた岡田監督に対するメッセージを、そして引導を僕たちサポーター自らが監督に伝えたかったからです。
03年、04年と2連覇へと導き、都会的でクールなチームを戦える集団に変貌させた名将に対するせめてもの礼として、最後の引導は僕たちの盛大なブーイングによってもたらされるべきだったと思うのです。
ブーイングに乗せて「お疲れ様」と。
それがフットボールにおける礼儀作法だと僕は信じているのです。
最後に岡田監督自らが語ったサポーター論を。
「サポーターはチームとともに闘うなかで感動を得る。ファンはお金を払って感動を買う。」
「勝てるチームはフロントやサポーターやボランティアなど、そこに関わる全員が全力を尽くすチームだ。」
岡田監督。数々の感動を、そして勇気を本当にありがとう。
僕たちサポーターが今以上に成熟し、あなたが今後、更に監督としての経験を積み、人間としての深みを更に増してスケールアップした時に再び再開し、リーグを、そして果たせなかったアジアを、また共に戦える日を楽しみにしています。
僕の中ではあなたは永遠に偉大な名将です。
by tricoparasol
| 2006-08-25 02:02
| マリノス