2009年 06月 24日
中村俊輔の移籍問題に関しては、完全な決着が着くまではコメントするまいと思っていたが、結果的にはこのような幕引きとなってしまった。
様々な憶測が飛び交う中、徐々に事の経緯と真相が明らかになりつつある。
簡単に今回の経緯を整理すると、
●約2年ほど前のインタビューで日本への復帰の意思を始めて語る。
その際、曰く「ピークなうちに日本に戻り、自分の経験を下の世代に伝えたい。そして古巣の横浜に恩返ししたい」
●その直後、横浜のフロントも中村サイドに連絡を入れ、復帰の意思を確認。
●その後も度々、横浜への愛着と、10年W杯をベストのコンディションで迎えるためにJリーグ復帰を語る。
●07/08スコットランドリーグ終了後の復帰の噂も上がるが、高額な移籍金の問題もあり頓挫する。
●斉藤社長、木村統括本部長(当時)が渡英し中村本人と直接会談。
●09年Jリーグ開幕に合わせた復帰の噂も上がるものの、世界同時不況の煽りを受け、こちらも頓挫する。
●09年6月21日の浦和戦で7年ぶりの復帰確実と各紙が一斉に報じ、復帰は時間の問題となる。
●09年6月8日横浜側は斉藤社長と狩野取締役、中村サイドはロベルト佃氏が参加した最終交渉の場で、 突如横浜側が金銭的な条件の一部に対して難色を示した為(具体的な内容は不明)、中村サイドの不信感 が急速に高まり、交渉は硬直化。
●その後、ロベルト佃氏がスペインに急遽渡り、エスパニョールと交渉。
●09年6月22日エスパニョール移籍決定。
ご存知のとおり、現在の横浜の財務状況は火の車である。功罪相半ばではあるけれど、新練習場(マリノスタウン)建設が財政を圧迫しているのは紛れも無い事実。
それに追い討ちを掛ける世界同時不況により、親会社の財務状況も急激に悪化し、クラブ経営としては全く余裕がない状況ではあるけれど、クラブとサポーターが協力をしながら、地域密着を掲げて、地道に努力を始め、クラブ体質の改革の真っ最中であった分けだ。
そんな中、中村自身が古巣への愛着を語り、それに答える形で約2年前から動き出したこのプロジェクトが、こんな形で終焉を迎えるのはどうしても解せない。
これは、勿論、横浜サイドが不信感をもたれる様な言動や行動があったのは事実かもしれない。だが、交渉事である以上、そこに双方の言い分や状況を踏まえた駆引きと類があって当然であるし、双方の要望をすり合わせて行く作業自体が「交渉」なのではないか。
恐らく、金銭的な譲歩を中村サイドに求めたのが、破談の坂道を転がる第一歩だったようだが、飲めない条件であるならば、話し合いの中で刷り合わせることは、本当に不可能だったのだろか。
少しでも自分の意にそぐわない事項が出ただけで、機嫌を損ねてしまう、腫れ物に触るような対応をしなければならない、わがままな選手だったのであるならば、クラブ内、クラブとサポーター、クラブと地域に出来つつある一体感や和を乱す奴はどんなスーパースターだとしても、今の横浜には不要である。と、俺は思う。
恐らく、中村のなかにも迷いがあったのであろう。
ここ最近の代表でのプレーに迷いがあるとの発言をしているが、Jリーグで決して好調とは言えない現状の横浜に復帰することが、来年のW杯に向けて本当にプラスになるのか?
代表では、チームプレイに徹するばかりに、10番としての、エースとしてのプレーが出来ていないもどかしさと危機感が迷いになっていたのではないか。
だから、彼は6月8日の会談での横浜フロント首脳への言動を後押しに、あえて厳しい環境に自身の身を置き、さらなるレベルアップする為の茨の道を選ぶ決心を固めたのではないか。
あのまま、6月8日の会談がスムーズに行ったとして、横浜に復帰が決まったとしても、どこか煮え切らない、迷いを抱えたままプレーを続けた可能性がある事を考えると、横浜フロント首脳がヒール役になりクラブのイメージダウン、興行的な損失相当デカイけれど、結果的には良かったのかもしれない。
こればっかりは、「人間万事塞翁が馬」である。
まー俺が言いたいのは只一つ。
中村、お前も偉くなったもんだな。
様々な憶測が飛び交う中、徐々に事の経緯と真相が明らかになりつつある。
簡単に今回の経緯を整理すると、
●約2年ほど前のインタビューで日本への復帰の意思を始めて語る。
その際、曰く「ピークなうちに日本に戻り、自分の経験を下の世代に伝えたい。そして古巣の横浜に恩返ししたい」
●その直後、横浜のフロントも中村サイドに連絡を入れ、復帰の意思を確認。
●その後も度々、横浜への愛着と、10年W杯をベストのコンディションで迎えるためにJリーグ復帰を語る。
●07/08スコットランドリーグ終了後の復帰の噂も上がるが、高額な移籍金の問題もあり頓挫する。
●斉藤社長、木村統括本部長(当時)が渡英し中村本人と直接会談。
●09年Jリーグ開幕に合わせた復帰の噂も上がるものの、世界同時不況の煽りを受け、こちらも頓挫する。
●09年6月21日の浦和戦で7年ぶりの復帰確実と各紙が一斉に報じ、復帰は時間の問題となる。
●09年6月8日横浜側は斉藤社長と狩野取締役、中村サイドはロベルト佃氏が参加した最終交渉の場で、 突如横浜側が金銭的な条件の一部に対して難色を示した為(具体的な内容は不明)、中村サイドの不信感 が急速に高まり、交渉は硬直化。
●その後、ロベルト佃氏がスペインに急遽渡り、エスパニョールと交渉。
●09年6月22日エスパニョール移籍決定。
ご存知のとおり、現在の横浜の財務状況は火の車である。功罪相半ばではあるけれど、新練習場(マリノスタウン)建設が財政を圧迫しているのは紛れも無い事実。
それに追い討ちを掛ける世界同時不況により、親会社の財務状況も急激に悪化し、クラブ経営としては全く余裕がない状況ではあるけれど、クラブとサポーターが協力をしながら、地域密着を掲げて、地道に努力を始め、クラブ体質の改革の真っ最中であった分けだ。
そんな中、中村自身が古巣への愛着を語り、それに答える形で約2年前から動き出したこのプロジェクトが、こんな形で終焉を迎えるのはどうしても解せない。
これは、勿論、横浜サイドが不信感をもたれる様な言動や行動があったのは事実かもしれない。だが、交渉事である以上、そこに双方の言い分や状況を踏まえた駆引きと類があって当然であるし、双方の要望をすり合わせて行く作業自体が「交渉」なのではないか。
恐らく、金銭的な譲歩を中村サイドに求めたのが、破談の坂道を転がる第一歩だったようだが、飲めない条件であるならば、話し合いの中で刷り合わせることは、本当に不可能だったのだろか。
少しでも自分の意にそぐわない事項が出ただけで、機嫌を損ねてしまう、腫れ物に触るような対応をしなければならない、わがままな選手だったのであるならば、クラブ内、クラブとサポーター、クラブと地域に出来つつある一体感や和を乱す奴はどんなスーパースターだとしても、今の横浜には不要である。と、俺は思う。
恐らく、中村のなかにも迷いがあったのであろう。
ここ最近の代表でのプレーに迷いがあるとの発言をしているが、Jリーグで決して好調とは言えない現状の横浜に復帰することが、来年のW杯に向けて本当にプラスになるのか?
代表では、チームプレイに徹するばかりに、10番としての、エースとしてのプレーが出来ていないもどかしさと危機感が迷いになっていたのではないか。
だから、彼は6月8日の会談での横浜フロント首脳への言動を後押しに、あえて厳しい環境に自身の身を置き、さらなるレベルアップする為の茨の道を選ぶ決心を固めたのではないか。
あのまま、6月8日の会談がスムーズに行ったとして、横浜に復帰が決まったとしても、どこか煮え切らない、迷いを抱えたままプレーを続けた可能性がある事を考えると、横浜フロント首脳がヒール役になりクラブのイメージダウン、興行的な損失相当デカイけれど、結果的には良かったのかもしれない。
こればっかりは、「人間万事塞翁が馬」である。
まー俺が言いたいのは只一つ。
中村、お前も偉くなったもんだな。
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by tricoparasol
| 2009-06-24 01:18
| マリノス